喪女予備軍の戯言

適当なことを適当に言ってます。

祖父の死

 二十歳の七夕に祖父が死んだ。祖父が二十一歳をお祝いしてくれることは二度とない。それどころか、以降私の人生において母方の祖父が誕生日を祝ってくれる日は二度と訪れない。

 前日、七月六日、祖父がいよいよ危ないという母の知らせを受けて祖父の家に足を向けた。昨年の暮れにさしかかる以前からどうにも祖父の体調が怪しいという話は聞いていたものの、まさかその半年と少し先には死ぬと考えていなかったし、まだまだ存命でこれからも話ができると思っていた。否、そう信じ込んでいたかった。

 前立腺がんが発端となり、終末には骨にまで転移してもう手の施しようがない状態であったという。祖父はどうにかして生きる手立てを探し、抗がん剤治療も受けていたし、わざわざ体調の悪いまま京都まで足を運んで免疫療法も試していた。努力も虚しく治る見込みもないことを悟った祖父は、せめて入院はしたくないと終生を自宅で過ごすことを選択した。

 祖父は、妻である私の祖母、子である私の母と叔父、その妻や夫と孫四人、そして自身の姉に看取られて息を引き取った。彼の望んだ彼の家で、彼の母が長らく暮らしていた和室で、皆に名前を呼ばれながら、最期は安らかにこの世を去った。お医者曰く、現代は自宅療養を選択できる患者は全体の一割程度しかなく、その中でもこれほど多くの近親者の前で最期を迎えられるのはわずか数パーセントらしい。さぞや旦那さんは幸せな最期だったと思いますよ、というようなことを、聞かされたように記憶している。あまり覚えていない。

 

 祖父にとって私は初孫だった。子である母曰く、当時血縁に幼い子供は私しかおらず、祖父だけに及ばず親戚周囲にとって私は可愛くて仕方のない存在だったらしい。自分にも他人に厳しく、頑固で言動も当たりの強いところのあった祖父は意外にも子供好きだったようで、それはそれは私を可愛がってくれた。私自身、祖父に可愛がられていた自覚はある。私を含め四人いる孫連中の中では確実に私が可愛がられていた。なぜなら長女の長子であるからだ。

 母から聞く祖父と、私の中の祖父とではかなり人物像が乖離している。母にとって祖父は厳格な人であり、可愛がられた記憶はないと聞いていた。祖父は自分で会社を立ち上げ経営し、祖母はその手伝いをしていて母の幼少期はあまり家にいなかったらしい。母はさぞかし寂しい思いをして過ごしただろう。多分、祖父はその償いを、私を通してしていたに違いない。母にしてやりたかったことを、歳を取り時間とお金に余裕ができたころにできた私という孫に施してやっていたのだ。私は祖父母に、様々なものを買い与えられた。初めてのゲームは祖父に買ってもらった。吹奏楽で使う楽器を買う時だって半額出してもらった。二十歳の祝いには多すぎる額の祝い金を受け取った。きっと、母にしてやりたかったことなのだ。ゲームを買ってやることも、楽器を買ってやることも、きっと母にしてやりたかったことなのだ。母が子供の頃、会社が大変で金銭的にも余裕がなかったと推測される。自分の子ではないから甘やかしていた部分はあるだろうが、今考えるとそうとしか思えない。

 私は祖父が大好きだった。大好きだったからこそ祖父の病気を受け入れられず、顔を合わせる機会は何度でもあったのに逃げ続けた。逃げ続けた結果、私は最期に彼と交わした会話が、恋人はいるのかという彼からの確認になってしまった。勿論いない。

 

 

 私から見た祖父は、確かに頑固で気難しいところはあったものの、基本的には優しい祖父だった。ゴルフが大好きで、祖父の肌はゴルフ焼けのせいでいつも真っ黒だった。ヘビースモーカーだったそうだが、私が物心ついた時には禁煙していた。お酒は一滴も飲めないほどの下戸だったらしい。甘いものが好きで、お腹が少し出ていた、いわゆるメタボリック体型。祖父の背は頼もしく、貫禄があった。

 亡くなる前日に見た祖父は、もう意識もなくどうにか生きている状態だった。苦しげに呼吸をし、歯は三本しかなかった。やせ細った身体は骨と皮しかなく、ゴルフ焼けで真っ黒だった肌はしばらく陽に触れていなかったせいか病的なまでに真っ白で(実際病気だったのだから病的という表現はまさしくそれであろう)、これが本当にあの祖父なのかと人知れず絶句した。頼もしさも貫禄も感じられなかった。しかし、確かに祖父だった。

 この時握った手は暖かく、祖母には朝発熱してね、と伝えられていた。翌日容体の急変を聞きつけて駆け付けた時に握った手は血が通っていないかのように冷たく、蝋人形のように白かった。たった一日で変わってしまった。そしてその数時間後に亡くなった。

 名前を呼ばれるたびに息を吹き返し、心臓が脈打っていた祖父のそれが段々と落ち着いて、正確に息を引き取ったのが一体何時だったのか私も、誰も知らない。母がずっと祖父の脈を計っていた。彼が息を引き取った前後、母が自分の鼓動か祖父の鼓動か分からないから代わりに計ってくれと私に祖父の手を握らせた。祖父の脈があるように感じられた。私の脈だったけど。

 そこからはめまぐるしく時間が過ぎ去って、在宅看護を請け負ってくれていた看護師さんを呼び、看護師さんと妹の二人で祖父の身体を綺麗にした。なぜ妹が手伝ったのかというと、妹が看護師という職種に興味を持っていたからだった。志し始めた理由は手に職がつくから、安定的であるからなどといった打算的な理由だったものの、これが決定打となり本格的に看護の道を進むことに決めたのだとこの前聞いた。貴重な経験をさせてもらえたものだ。ともあれ、その看護師さんと妹の手によって綺麗になった後は、懇意にしている葬儀屋を自宅に呼び寄せて葬儀の日取りを決めたり、親類や知り合いに祖父の訃報を連絡し、長らく檀家となっている寺院に一方を入れた。私はただそれを見ているだけだった。成人していても、この家では私は無力な子供でしかない。気を紛らわせるように読書をし、携帯電話で遊んで、時間が過ぎ去るのをじっと待っていた。

 祖父が息を引き取った直後、私は洗面所に籠って一人泣いた。私以外は誰も泣いていなかった。それは、決して祖父が愛されていなかったとか、そういう理由じゃない。そもそも愛されていなかったら、厳格で偏屈なだけの人であったなら、例え直系の親族でも彼の最期に立ち会わなかったはずだ。私以外は現実を受け入れられていて、私だけが祖父の死を受け止めきれず泣いただけだと思う。どうしてそんなにみんな強いのか、私には分からない。祖父が弱っていく姿を見ていないから、突然目の前に現れた弱々しくなった祖父が祖父である現実を、受け入れられなかったのだろうか。

 亡くなった七日は金曜日で、本当なら土曜に通夜、日曜に葬式を行う手はずだったが、日曜が友引だったのでやむを得ず葬儀は月曜に先のばされた。私は土曜と日曜にアルバイトをしているので、休む連絡を入れると伝えたのだが、母には大丈夫だから休まずに行きなさいと言われ、困惑しながら両日ともにアルバイトに向かった。さすがに通夜のある日曜は早引かせてもらったが、それでも普段と変わらず自分の趣味に費やすための小銭を稼いでいた。

 母がどこまで考えて私にアルバイトに行ってもいいと伝えたかは分からない。私は非日常の中で、最も日常的であるアルバイトという行為を行ったおかげで、どうにか精神バランスを崩し切らずに済んだ。私のアルバイトは接客がメインであり、どれだけ気分が落ち込んでいても、どれだけ心がすさんでいても、お客相手には愛想を振り向かねばならなかった。私は、接客が好きだ。嘘でも笑えば気が楽になるとは本当の話で、アルバイトに来るつい三十分前まで号泣していたはずの私が、アルバイトをしている六時間の間だけは悲しみを忘れることに成功した。妹が祖父の身体を綺麗にしたことで祖父の死を完璧に受け入れたように、私は日常生活を送ることで祖父の死を徐々に受け入れ始めていた。

 土曜の朝、おっさん(和尚さん)を招いて祖父の枕経を行い、それこそ起きた時から嫌でも祖父の死というものを突き付けられていた。祖父の亡骸を目の前にして、おっさんは経を唱え、説法というにはかなり私情の入ったお話をされて帰った。祖父の家は熱心な浄土真宗で、毎年盆には決まったおっさんが祖父の家を訪ね、故人を弔った。

「お母さまを看取られて、ようやくこれからという時に」

 そう告げたおっさんの顔は、本当に悲しんでいるように見えた。祖父の母、つまり私の曾祖母は、私が十七の時に百歳でこの世を去った。祖父に比べれば大往生だ。通夜でも彼は同じようなことを言葉にした。それを聞いた母は、帰宅してから「おばあちゃんが寂しがってお父さんを連れてってもたんや」と、あながち冗談でもなさそうに呟いた。祖父は長男だった。

 葬儀屋が通夜からの段取りをどうするかという相談と共に、湯灌の儀をしにやってきた。その場で見ていてもいいと言われていたため親族はその場に残ったが、私だけはすぐさまその場を離れてしまった。次いでいとこの二人が部屋に戻ってきた。私は時計とにらみ合いながら、儀が終わるのをひたすら待った。すべてが終わって、アルバイトに向かうため着替えや化粧をしに席を立った。部屋に戻って昼ご飯を食べて、行く前におじいちゃんの顔を見てきなよ、と母に言われるまま、重い腰を上げて死に化粧を施された祖父の顔を覗きに仏間へ向かった。

 祖父の死に顔は、土気色でいかにも死人だった状態から、すっかり綺麗なものになっていた。今にも起きてきそうな顔してるでしょう、と、いつの間にか隣にいた祖母に言われた。そうしたらもうだめだった。いくら寝ているだけに見えても、今にも起きてきそうな顔をしていても、祖父はもうこの世にいない存在なのだ。心臓は動かない。閉じた口は二度と声を発しない。瞳を開けて私を映して、遊びに来てたんか、と笑う彼はもうどこにもいないのだと知った。声も上げずに泣いた。祖母の声は耳にも心にも届いていたのに、泣かれていることを悟られたくなくて頷くばかりだった。やがて、私の鼻をすする音が耳に届いたのか、祖母は少し嬉しそうにあんた泣いてくれてるんか、と言った。

「おばあちゃん、全然泣かれへんのよ」

 前日、あんなに苦しむならすっと逝けた方が良いのにと私は思うのよ、と祖母は言っていた。「あの子ら(私の叔父や母のこと)は父親やから、死んでほしくないと思ってるみたいだけど」

「これからおばあちゃんどうしよ。おじいちゃんおらんくなって、することもないしねえ」

 そんなの、いつでも遊びに来るわ。おんなじ市内なんやし、私今年はまだまだ暇やし。多分、そんなようなことを言った。

「あんたが一番、お父さんと過ごした時間は長いからなあ」

 うん、そうや。私が一番、おじいちゃんと遊んだ時間は長かった。外にある広い庭で、おじいちゃんの好きなゴルフのボールを使って遊んだ日も、おじいちゃんの草刈りの邪魔をしてケラケラ笑った日々も、本当は微かに覚えている。末のいとこと九つも違う私は、唯一祖父に成人した姿を見せられていた。成人式に着た振袖は、実のところ本当に着るかどうか悩んでいて、着てよかったとその時心底思ったものだ。周りの友人たちに「絶対着て後悔せんよ」と諭され、渋々ながらに決めただけのことはあった。後悔どころか背中を押してくれた友人たちには感謝しかない。桃色の振袖に袖を通して、祖父の家を訪ねた。祖父と祖母の三人で写真も撮った。綺麗だと褒めてもらえた。あの時着ていればという後悔がないだけ、百倍良い。

 通夜には驚くほど多くの人が参列した。一人で会社を立ち上げた人間というだけあり、生前祖父と親交のあった人々が突然の訃報を耳にし駆けつけてくれたようだった。私の父も、その数の多さには驚いたと言っていた。何より驚いたのは、届けられた花の数だったという。式場には入りきらず、入り口のその先まで花が立てられていた。やっぱり、私にだけじゃなく多くの人にとって祖父はいい人だったのだと思う。そうでないといくら何でも通夜にはやってくるまい。

 翌日の葬式ののち、告別式で私は祖父に手紙を渡した。遺体と共に焼いてもらうためだ。最後に、花にうずもれた祖父の顔を見て、穏やかに微笑んでいるような気がして、さよならと笑顔で言うことが出来た。

 遺体が遺骨になって、骨壺にそれらを入れるはしわたしの儀を行ったとき、骨の脆さを知った。箸に少し力を入れるだけで、さっくりと音を立てて骨は割れた。すべての遺骨を骨壺に入れるわけではなく、その一部をしまうのだということも、初めて知った。ぎゅうぎゅうに詰められた祖父の遺骨の一部は、そのまま祖母の家へ持ち帰られた。あの広い広い家に、祖母は一人きりで暮らしていくことになるのだと思って、考えるのをやめた。

 それきり私は祖父の死を受け入れて、悲しみに暮れる日々と決別できたかのように思えていた。私の精神状態を心配して、友人たちが連絡をくれていたものにも、大丈夫だからと平然と返すことが出来ていた。その中の一つに、あとで一気にくるときもあるから、と書かれていたものもあったが、もう乗り越えられた気になってありがとうとだけ返していた。

 祖父が亡くなって一週間後、私は変わらずアルバイトをしていて、もうすっかり日常に戻ったものだと思いあがっていた。お客への受け答えも普段と変わらず、愛想を振りまきながら大好きな接客をしている。笑いあう家族連れも、若いカップルも、仕事中の人々も笑顔で対応して、そしてふと、老夫婦に目が付いた。私は祖父母が私を見にバイト先を尋ねてきた一年前を思い出した。祖父がまだ自分の足でしっかりと歩き、足の悪い祖母を気遣っていた頃だった。

 大丈夫になったと思い込んで、弱い自分はその弱さを隠すことで虚勢を張ることを成功させようとしていただけだった。ひたすらに虚無感が胸を支配し、頼まれた皿洗いをこなしながら、厨房で泣いた。化粧が崩れるのも気にしなかった。店に戻ってから先輩に顔色が悪いと心配されたものの、大丈夫ですよと軽く笑って、明日祝日なのに学校があるから憂鬱なだけです、と嘘をついた。

 帰ってからまたひとしきり泣いて、本当の意味で祖父の死を実感していった。あの家に行っても、もう祖父は私を出迎えてくれない。私に恋人はできたか冗談めかして聞いてもくれない。アルバムをめくりながら、おじいちゃんの一番好きな写真だと見せてくれたのは、幼い私が一生懸命祖父を覗き込んで何か話しかけている姿だった。数ある写真の中で、七十四年生きてきた人生で数多く撮ってきた写真の中で、一番好きな写真がそれだというのだから、私は愛されている。

 その話をしたのが、今年の五月だった。まだ、二か月前のことである。

 

 今日の夕方、母に言われてスイカを冷蔵庫から出した時、三週間前にアルバイト先でもらったメロンの存在を思い出した。メロンは祖父の好物だ。私は果物が大嫌いで、それでも唯一メロンだけは食べられるのだけれど、祖父にあげられないかと思い母に尋ねたのだった

「ちょうどよかったわ。おじいちゃん、もう何も食べられへんのやけど、メロンは食べられるみたいなんよ」

 その後そのメロンの行方がどうなったのか、私は聞いていなかった。お母さん、めっちゃ前の話やけど、この前私が店長からもらったメロン、おじいちゃん結局食べられたん?

「あれ、言ってなかったっけ。おじいちゃん喜んで食べてたよ。片方はぐずぐずになってたからメロンジュースにして、もう片方は美味しいって言いながら全部食べてたわ。おじいちゃん、オレンジのメロンは嫌いって言うてたから、あんたの貰って来た緑のメロンが嬉しかったみたい」

 そっかとそっけない返事をして、またもや私は洗面所に駆け込み、化粧を落とした。顔を洗うついでに涙も流しておいた。祖父はちゃんと、私の渡したかったメロンを食べられていたのだ。

 不思議と、祖父の死に関して後悔はあまりない。ぬぐいようのない悲しみが唐突に押し寄せて、防波堤が崩壊するように涙があふれた。正直な話、これらを書いている今もなお、当時を思い出すたびに泣いている。泣くのは昔から得意だ。泣かない方法を知りたいと願うくらいに。

 来月の今日、祖父の四十九日を弔う日がやってくる。そのころまでには、嗚咽を上げてしまうようなみっともない泣き方を、止めることが出来ているだろうか。

 ふと祖父を思い出しては、泣いて、泣いては落ち着いて、落ち着いては祖父を想って、そんな二週間だった。もうすぐ三週間が経つ。それでも私は、あの家を尋ねれば祖父が私を出迎えて、久しぶりやな、と笑ってくれる日々を信じている。