喪女予備軍の戯言

適当なことを適当に言ってます。

松村北斗の「みはり」

※以下、現在行われているSixTONES単独コンサート「CHANGE THE ERA -201ix-」内のネタバレ含む考察と妄想です。



 あの日観たのは確かに一つの芸術であり、完成された作品だった。演出、ダンス、歌声のすべてが計算され尽くした芸術。終わりを約束された始まり。


 文学や芸術が好き、というのは知っていたけれど、スクリーンに映る文字の洪水は彼の貪欲な探究心を表しているようだった。言葉の渦の中で自己を表現する松村北斗は、自分すべてを利用して歌詞の意味や楽曲の世界観を映し出している。

 そもそも、世界観を作るというのは存外に難しい。演劇でも、文学でも美術でも、引き込まれる芸術作品は一目見た瞬間にその世界に飲まれる。あの時、松村北斗は一瞬にして会場を飲み込んだ。自分の世界に引き入れてしまった。私は思わず、ペンライトの存在を忘れ固唾を飲んで彼の表現する世界を見守っていた。否、彼を追わずにはいられない感覚に陥った。


『楽園は崩れ落ちた』という歌詞がある。歌詞を調べたところ、このワンフレーズは二度歌われるのだが、わたしは曲の終わるその時までついぞそのフレーズが耳から離れずに、彼が壇上から消えるその時まで一種のテーマとしてそれを捉えていた。

 パラダイスロスト。よく聞くフレーズだが、なんとなく、根底にそのイメージがあるように感じられてならない。絶望の淵に立たされた人間が、その苦悩や嘆きに身を割かれ、最後に世界は崩落を迎える。絶望に追いやられるまでの「彼」が果たして楽園にいられたかどうかは定かではないが、物語の冒頭時点でそれまで「彼」がいた世界はすでに崩壊しているのだ。


 さて、凝縮された時間の中で悲嘆と苦境の感情を表現した彼は、壇上から姿を消して物語に終止符を打つ。自らが数瞬のうちに作り上げた世界観を、物の見事にぶち壊して終わるのだ。

 物語の中では往々にして、死を美しいものとして扱うきらいがある。わたしはその傾向を好む人間で、物語の後味は綺麗でなければないほど美しいと感じる。だからこそ、徐々に音が消えていく中で歌い続ける「彼」が、苦悩から解放されるために身を投げた最期を、果たして美しいと思わずにはいられない。

 わたしが観た「みはり」は初日の昼、つまりまだ誰もセットリストや演出を知らないまっさらな状態であり、彼の演出の最期を見届けた会場の一部からは短い悲鳴が上がった。わたしも思わず嘆息した。なんて綺麗な最期を見せてくれたのかと。たった数分という短い時間の中で、まんまと彼の作り出した世界に引きずり込まれ、息を吐く間も無くその世界の中で殺されたのだ。


 もしも彼に、彼のためだけの曲が与えられたら、一体どんな世界を作り上げるのだろう。陰鬱とした世界の中で一筋の光を探すのかもしれないし、あるいは真逆の、何の憂いもない明るい未来をうたうのかもしれない。その日が訪れるのが楽しみでならない。松村北斗という人が作る世界を見てみたい。


 今はただ、もう一度だけでいいから、彼の「みはり」が観たかった。