喪女予備軍の戯言

適当なことを適当に言ってます。

新卒入社5ヶ月で休職して思ったこと。

入社5か月で休職した。新卒で入社した会社だった。

社会人なら誰しもは一度が仕事を辞めたい、辛い、どうにかなりそうだと苦しんだ経験があると思います。それでも大半の人はメンタルを持ち直し、何とかなっているからこそ社会は何となく回っているのでしょう。この記事はあくまでも備忘録であり、私のように半年ともたずドロップアウトしてしまった人間の記録として記しておくものです。いわば自己陶酔交じりの恥さらし作文ですね。少しばかりお付き合いいただけると幸いです。そして、少しでも私と同じ状況に陥りそうな人の救済になれば。

 

2年ほど前、幾度となくお祈りメールを受信しようやく掴み取ったのが某大手生命保険会社の営業職でした。いわゆる生保レディですね。この辺りで察しの良い人はおおまかに潰れた理由が理解できるでしょうが、予想に違わずそんな感じです。

 

私が潰れてしまった要因として、主に4つが挙げられます。

 

①真面目さゆえ、必要以上に「~しなくてはならない」観念にとらわれていた。

②一人暮らしを始めたばかりで、周囲に相談相手がおらず、一人で苦しい思いを抱えることになってしまっていた。

③入社当初の研修成績が過剰評価され、新入社員班の副リーダーに選ばれてしまった重責。

④単に営業向きの性格ではなかった。

 

①は誰にでも起こりうることです。昔から変なところで真面目な性格をしており、平々凡々な能力しか持たない人間にも関わらず完璧主義で、常に評価されていなければ存在価値がない人間だと思っていました。今でも思っています。自己肯定感は皆無で、他人から期待されたり、頼られたりすることで、ようやく生きていることを許された気がしていました。

これは意外にも現代っ子に多い特徴ではないでしょうか。能力以上のことを最初からできるようにならなければと思い込み、潰れていく「適度真面目」は日本を見渡すとそれ相応に見つかるでしょう。この強迫観念こそがすべての元凶であり、加えて単純に営業に向いておらず八方塞がり状態に陥った。上司からの過度な期待もあり(後述)、あなたならできるはずなのに、どうしてできないの。そんなんじゃ給料泥棒だよと言われたこともありました。実際、私は営業が始まってから休職するまでの2か月間で、与えられた担当営業先から2件しか新規契約を取れていません。

 

ここからしばらくは前職への愚痴でしかないので、結論まで読み飛ばしていただいて結構です(あくまで最後まで読むことを強要するスタイル)。

 

 

 

 

1、研修期間の業務態度

 

新入社員は基本的にビジネスマナー研修等から始まるが、例に漏れず前職も4月、5月の二か月間はひたすら研修に充てられた。生保営業マンとなるにはとにかく取得しなければならない資格が多く、まずはその資格にすべて合格することが私たちの最初の業務であり、義務だった。ここで資格を取得できなければ即ち今後社内で居場所を失うことと同義だった。

とはいえ、資格取得に向けての勉強はあくまで自主性に任せられており、毎日何時間も過去問を解き続ける日々が続き、その平均点が悪ければ全体で叱責され、著しく点数が悪い動機は個人で別室に呼び出されていた。この時点で、入社前にきかされていた「基礎からきっちり教える」研修内容からは少し乖離しており、特に問題の解説をされることもなく淡々と過去問をこなす毎日に疑問を持つこともあったが、私はとにかく必死だった。休みの日も勉強に費やしていた。後から訊くと、他の同期ちゃんと休日は遊んでいたらしい。なんだそれ。

新入社員のもう一つの仕事は、とにかく商品の知識を深めること、そしてその販売話法を習得することだ。こちらにも私は必死で、今思えば酷く滑稽なのだが、人よりも早く商品を覚え、営業が始まると同時に売らなければと思い込んでいた。新入社員から生命保険を買いたいと思う人間など、よくよく考えたらよほどの物好きでなければいないことくらい、簡単に分かるというのに。

 

そんなわけで、研修期間中の私は上司からすれば模範的な新入社員だった。与えられた資格試験の模試では常に満点近い成績を取り、商品知識を蓄えるために分からないことは逐一質問し、時には同期で構成される班のリーダーとして話し合いの場をまとめるような役を買って出た。最後に関しては、これまでの環境で話し合いの回し役をすることが多かったので考える前にしてしまうだけだったのだが、上司にはそれが適性のあるように見えていたらしい。結果として、私は営業開始班の副リーダーに選ばれてしまい、そして潰れた。

 

ここで一つ、生保会社特有のおかしな風習について話しておこうと思う。

新入社員は、入社してすぐ知人に入社挨拶はがきを送らなければならない。私たちの場合は一人あたりのノルマが30枚で、最初は無理に出さなくてもと言っていた上司たちも、うちの支部が全国平均最下位を叩きだしてから本部に叱られたのか、毎日枚数を伝え責めるようになった。出している枚数ごとに呼び出され、もっと出せる人はいないのかと言われた。

当然私は友人たちに頭を下げ、友人の親の名前まで借り、ノルマを達成した。恐らくこの時、少なくない人数の友人を失い、また、今でも関わってくれている友人の信頼も失ったと考えている。

 

2、営業直前の業務

 

先ほどの入社挨拶はがきと関連して、今度は生保関連のアンケートを取得するノルマが課せられた。今度の枚数は1か月以内に50枚。はがきを出した人中心に聞き取り調査を行い、ノルマが達成できなければなぜ達成できないのか同期同士で話し合わせ、上司から呼び出しもあった。

このころから少しずつ心に負荷がかかっており、私は本当に少しずつ、少しずつ壊れていった。このときも再び友人やフォロワーに頭を下げ、ラインやスカイプで聞き取り調査を行い、なんとか期間内ぎりぎりにノルマを達成した。このあたりで自分に限界を感じ始めており、そしてノルマ達成が上司たちの中で決定打となったらしく、休職までの残り3か月間私を苛み続けた「副リーダーとしての責務」を負わされることになる。

 

3、営業開始

 

6月から営業が始まり、私には5つの担当の営業先を与えられた。初めて先輩と営業へ行ったとき、あまりの話せなさに失望した。お客さんとの会話は弾まず、指導する立場の先輩から慰められるほどだった。

 

あれだけ必死に覚えた商品知識が活かせない。話法が活かせない。いくら勉強をしたところで、それを実践できなければ意味がない。私は、私にとにかく絶望した。

 

どこの営業先へいってもその能力値のなさは改善せず、先輩や上司からも最初はこんなものだと励まされたが、そうこう言っているうちに同期の中で数人、契約を貰えるものが出てくる。相変わらず私はアンケートを取るのに精いっぱいで、男の人は怖いし話しかけても生保というだけで無視されるし、渡したチラシを目の前でゴミ箱に捨てられることもあった。とにかく人が怖くなった。このころから趣味への興味や関心を失った。

 

毎日家に帰って眠るだけの生活に陥る。私はドルオタなのだが、この一か月は正直記憶にない。当時義務的に買っていた雑誌を休職後に解体したのだけども、まあ全くもって読んだ記憶がなかった。がはは。何ならこのときやってたバラエティ番組、予約すら忘れててデータもないよ。オタクが趣味に関心持てないのって結構指標になるね。あとツイ廃なので6月7月はツイート数が激減してた。普段が1日100ツイートするとすれば、この頃は1日1ツイートすればいい方だった。

19時に帰宅して、化粧落としてスーツ脱いだ後の記憶がない。気が付いた時には朝の5時で、とにかく毎日眠くて仕方なく、何事もやる気が起きず、出勤して電車に乗って営業先に行って、お客さんに話しかけられず帰社して、そんな日々が続き、自己嫌悪の渦が物凄いことになる。また、このとき胃腸炎を患い、1日1食食べられない生活を2週間余り続けた結果、体重が6キロ減った。過去一痩せた。このころ、一度も実家に帰ることができていなかった。私は誰にも苦しさを吐き出せなかったのだ。

 

4、契約取得と上司からの叱責

 

そんなこんなで7月に入り、新しい推しとも出会ったことで精神的に持ち直してきてはいたものの、徐々に私の中で「こんな職業この先ずっと続けられるのだろうか」という疑念を抱くようになる。それでも契約を取らなければならないことに変わりはなく、私は上司の力を借りて一件の契約を獲得した。初めての生命保険の契約だった(もう一つの契約は損保で、通りがかりの清掃員のおばさんが私を憐れみ入ってくれたものだ。今でもあの人には感謝している)。

 

7月末の契約当日、私はあるヘマをやらかし、約束していた日に契約をすることができなくなった。上司からは呆れられ「いつまでうじうじしてんの?」「そんなに私可哀相ですアピールされても困るんだけど」と言われる始末。能力皆無自尊心高完璧主義クソメンヘラはこのあたりでメンタルがずたずたになった。心の支えは毎週末友人と劇場版うたの☆プリンスさまっ♪を観に行くことだけだった。

そしてついに私はとんでもないやらかしをする。やらかした数日後、再度契約をしていただきに伺った際、向こうの都合で契約がその場で成立したかどうか分からない状態が発生し、私は重大な(といってもそれほど重大でもなかったのだが、当時はこの世の終わりくらいの重大さだった)コンプラ違反を犯してしまったのだ。

 

当然帰社後上司には叱責され、めちゃくちゃになじられた。一番刺さったのは「あんたみんなの前では何でもできます、理解してますって顔して調子乗ってるんだろうけど、誰よりも一番できてないからね」って言葉です。今でも当時の状況そのまま脳内再生できる。その日は猛暑日を記録するほどの熱さで、私はその炎天下でトータル30分ほど日除けなくバスを待ち続けていたという経緯もあり、叱責のショックも加わってか過呼吸を起こし社内でぶっ倒れた。まあその日ご飯も食べてなかったしね(怒られて食べるタイミング失った)。

 

そしてそれが引き金となり、8月に入ってすぐ、初めて親に電話しながら泣いた。

 

5、そして休職へ

 

8月に入ってすぐ、大型連休に突入した。突入する直前、親からかかってきた電話で「辛いなら連休明けてもしばらく家から通えばいいよ」と言われ、私は喜んで荷物をまとめて帰省した。何より8日間も会社に行かなくていいのが嬉しかった。

やらかしをする前後くらいから、私は電車に乗れなくなっていた。会社に向かう路線に乗り換えてすぐに、不安から動悸や腹痛を起こし一つ手前の駅で下車して、落ち着いてから再び電車に乗り込むようなことが続いていた。当時私の状態を見かねた(情報源はついったー)リア友が私の家に遊びに来て話を聴いてくれたのだが、まあどう考えても異常だった。話し始める前から嗚咽が止まらず、泣きながらどうにか仕事のことを話して、初めて友人相手に「つらい」と漏らせた。そしてやらかし、社内でぶっ倒れ、親から実家に呼び戻されたといった感じだ。

 

実家の居心地は良かった。大好きな犬もいるし、親は珍しく私が何もしなくても怒らないし、妹は優しかった。何より上司の顔を思い出さなくて済み、仕事のことを考えなくていい環境が心地よかった。だけどここで、8日間も休みを挟んでしまったことで、私の心は完全に折れてしまったのだ。

 

コンプラ違反を起こした時に一年目とか関係ない、転職しようと心に決め、転職エージェントへ相談するようになった。皆一様に「あと半年続けて職歴を1年にしよう」「まだ一年目だから、雇ってくれるところはなかなかないよ」と現職を続けるようアドバイスしてくれた。気持ちはわかる、けど私は今すぐあの地獄から抜け出したい。その一心だった。

 

そして8日間の休みの間に、私は親へ仕事を辞めたい旨を伝えた。当然両親もエージェントと同じ反応をし、せめて1年続けなさいと言ってきたが、そのときの私の様子があまりにもおかしかったようで、一度目の話し合いは5分ともたずに終わった。思い返しても両親に対して怒鳴りつけたのは初めてだったし、両親の前でリミッターが外れ狂ったように泣いたのも初めてだった。父親はキレてたけど後々冷静になったらしく、8日間の休みの終わりごろになると「本当に辞めたいならお父さんの知り合いの職場を紹介するから」と言ってくれた。それまで親とは折り合いが悪かったけど、分からないことに対して親は理解ある親だった。

 

休みが明け、数日間自宅から職場に通っていたのだが、その間に一つ事件が発生する。上司から同期全員向けに発せられた「給料泥棒」発言だ。

「会社から交通費も給料も貰ってるのにただ営業先に行って突っ立って帰ってくるだけって、それって給料泥棒と同じなので」

文脈的には何も間違っていない。ただ我々新入社員に発破をかける意図で、言葉のチョイスが悪かっただけ、といえばそれまでだ。ただ、当時の私にはトドメだった。当時の私は、何とか会社に向かえてはいたけれど、営業先に行くと足が竦んでドアが開けられず、営業先の昼休みが終わるまでの45分間、その場に立ち尽くす日々が続いていた。

 

コップの水があふれるのは突然で、実家から出勤するようになって5日目、私は出社してすぐ自分ではコントロールできないほど感情の渦に飲まれ、自席で泣き狂った。過呼吸も起こした。上司の前でもう無理です、帰らせてください、もう限界なんですと嘆願した。すべての事情を話しても、上司は家に帰してくれなかった。

 

「会社に黙って転職活動をするなんてありえない」

「実家から通ってたらそりゃあ甘えたい気持ちにもなるでしょ、一人暮らししてるなら続けなきゃ」

「ていうかそんなにしんどいならなんでもっと早く言わなかったの?」

「今日帰ってもいいけど、今日帰っても何の解決にもならないよね。それに営業先に行けないだけで会社にはいられるんでしょ? この後全体で大事な会議があるから、あとで説明するのも面倒だし今日はそのままいてね」

 

あんまり記憶ないけど、こういうことを言われたことはぼんやりと覚えてる。

 

翌営業日、私は体調不良と偽り会社を休み、転職のための面接へ向かった。面接は2件あった。面接と面接の間に、ふと思い立って立ち寄った心療内科で、私は適応障害の診断を下された。

 

すべてを許されたと思った。

 

結論:適応障害と診断され、社会復帰するまでに思ったこと

 

私が適応障害になった経緯は以上ですが、簡潔に言えば「真面目過ぎたゆえにドツボにはまり、いろいろな原因(営業への恐怖心、上司からの過度な期待、上司からの心無い叱責など)が重なって入社5か月にして限界を迎えた」という、ありがちな理由です。

 

適応障害って言われたよ、と両親に報告したとき、父親からはそんな気がしていたと言われ、母親からこれでしばらく会社から離れられるしよかったと安堵された。とにかく今の環境から離れてほしいとのことだったので、翌日会社に休職届を提出し、いろいろあって翌週から休職扱いとなりました。

ここで「基本給実は10万だった問題(内定時点では告知なし)」に直面することになるのですが、今回は関係ないので割愛しておきます。いろいろと細部の体制が酷い会社なのは確かです(前職場に限ったことではなく業界全体で多分そんな感じだけど)。

 

 

9月に休職し、2月に社会復帰するまで、色々なことを考える時間が得られました。これまでの自分のふるまいを見つめ直し、今度は自分が自分を認められる環境で仕事がしたいと思うようになるまで2か月の時間を要しました。そこから少しずつ転職活動を再開し、12月に今の会社の内定を取得。前職に駄々を捏ねられて退職させてもらえず、喧嘩を売りに売ってなんとか1月末に退職し、今はなんとか元気に暮らしています。

正直、休職している間は焦りしかありませんでした。1か月目は疲れた心と身体を癒すことに費やしていたので良かったのですが、2か月目からは焦りが生じてくる。このままずっと休んだままでいいのか、復職するのか転職するのか、復職したところでまた上司から叱責されるだけの日々が続くのではないか。じゃあ、次に転職するならどんな職が良いだろう。時間だけは潤沢にありました。贅沢な話ですが。

休職している間に、祖父が亡くなるといったことも起きました。休職していなければ、地元を出ていた私は祖父の最期を看取れなかったでしょうし、見舞いにも行けていなかったでしょう。祖父は私が「再就職に成功した」と思って安らかに眠ったので、私はそれを現実にするため、祖父の通夜がある昼に面接へ向かいました。結果として、私は祖父のおかげで現職に就くことができた、とも言えます。

 

適応障害という、目に見えて分かりづらい障害は、周りからの理解よりも先に自分自身の理解という苦悩があります。だって仕事をしていなければ元気だから。その環境にいなければ私は元気だから。仕事から離れることで、趣味も楽しめました。貯金を切り崩して現場にもいっぱい行きました。前職でよかったことは、新卒にしては給与が良すぎたことです。おかげで入社5か月とは思えないほどの貯金があり、私はそれで趣味の時間を持つことが出来た。同時に、働いていた当時はその給与の良さが重荷となっていましたが。

時に心療内科は批判されることも多いですが、少なくとも私は診断書の紙一つで救われました。適応障害は特定の条件下以外で目に見えた異変が発生しにくい分、日常生活では自分を苛むことが多いと思います。私がそうでした。でも、休職している期間は決して甘えではないことを忘れないでください。次に進むための準備期間です。甘えじゃないんです。

 

私はとにかく運が良かった。私より先に適応障害に理解を示してくれた両親は、何か月と働かず家に金をろくにいれなくても責めず、養ってくれる環境を与えてくれた。友人たちも私を過度に気遣うことなく連絡を取ってくれた。そして1年目退職にも拘らず転職に成功し、現職はつらくないどころかむしろ仕事が楽しくて仕方ない状況です。正直、毎日仕事でも苦じゃない。仕事内容は楽しいし面白いうえ、昼休みは決まった時間に貰えるからまともに昼食を食べられるし、定時に帰宅できるし、分からないことがあって質問しても怒られないし、新人のわりにうまくやってるねとむしろ褒めてもらえる。私は運がいいということを忘れてはいけない。

 

あと数日で社会人になる人へ。もし、たった1か月でも働いて辛いと思ったら、素直にそれを誰かに相談してください。相談することで心が死ぬという最悪の事態を回避することができるかもしれません。今はコロナの影響ですぐさま転職が厳しいかもしれませんが、死ぬ前に仕事を休んでください。簡単に辞めろとは言い難いここ数か月の情勢ですが、心が死に身体が限界を迎える前に、休んでください。1年目でも休む権利はあります。そして情勢が落ち着き、自分自身の状態も落ち着いたら、続けるか転職するかの行動を起こすくらいの心構えがちょうどいいのだと思います。

 

今度の仕事は今の気持ちのまま楽しく続けられたらいいな。休職期間中は社会不適合者の烙印を押されたと思い込んでいましたが、いざ社会復帰してみると、意外とそうでもないことに気が付きます。向いてる仕事なんてやってみなきゃわかんない博打ですが、仕事に向き不向きは確実にありますので。

 

自分語り乙という感じでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。